家族という名の他人(野口優月・中3)

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 私の思い込みは「家族と仲良くし、信頼すべき」ということです。
 私たちは親を選んで生まれてきたわけでは無いので、家族とは「家族」という名前の無作為に集められた何人かの集団にすぎないように思います。
 親のおかげで今の自分があり、育ててもらっていることがすごくありがたいことだというのはわかっています。

 私が「家族と仲良くし、信頼すべき」と思い込んでいると気づいたきっかけは、ある日の夜ごはん中に母と話していた時のことでした。私はその日あったあるできごとに対する母の対応を聞いていました。
そのとき私は、母が良かれと思ってとった行動を受け入れられませんでした。どんなことだったのかはもう忘れてしまうほど些細なことでした。
しかし、「私だったら絶対そんなことしない。」さらにいうと「私がそんなことされたら嫌だ。」そんな風に思ってしまったことは鮮明に覚えています。
ジェネレーションギャップのせいなのかもしれません。
母の対応が俗にいう大人な対応であり、それを幼い考え方の私には理解できなかっただけなのかもしれません。
また、実際に自分が同じ立場になったら母と同じ行動をとったかもしれません。
けれど私は思いました。ただただ性格や考え方が合わないからなのではないかと。
その時私は、今まで漠然と家族は仲良くあるべきであり、性格は合うにちがいないと思い込んでいたと気づくと同時に、家族だからといって、性格や相性が必ず合うとは限らないし、信頼しきることも難しいのではないかと疑うようになりました。

 その一方で自分の中のどこかに「とりあえず親に相談するのが1番だ」という考えがあるのも事実です。
真っ先に相談相手として思い浮かべるということは信用してるからなのでしょう。あるいは信用してもいい、すべきだと思い込んでるのかもしれません。
けれど親のことは「親」としてしか見たことがなく、どんな人間なのかを客観的に考えたことなどほぼ無いのに、なんでここまで信用しているのか疑問です。
「親」は自分より人生経験が豊富だからかなと思ったのですが、それなら他の大人でも同じです。
じゃあ自分のことをよく知ってるから?とも考えました。
確かに親の方が小さい頃の自分のことは誰よりもよく知っています。けれど一日のうちで私は親よりも友達と会話している時間が長いので、友達の方が今の自分のことを知ってるんじゃないかなと思います。

 つい最近、学校の社会の授業で家庭の役割を習い、その中に「団らんの場」「やすらぎの場」とありました。これを習ったときなんとなく違和感を感じました。これらの役割を満たすには「家族の仲が良い」ということが大前提です。
両親の仲がいいことが良いこととされるのは、ほとんどが好き同士で結婚しているのだからと考えると納得がいきます。
けれど家族の仲がいいというのは当たり前のことではないと思います。
世の中にはいくら頑張っても仲良くなれない相手はいます。それぞれに個性があるのでそれは仕方がないことです。その仲良くなれない相手が家族の中に絶対にいないとは言い切れないのでないでしょうか。
なのでこの違和感は「家族の仲が良い」という前提が成り立っていない家庭もあるのではないか、というところから来ていると考えます。

 今でもなんで家族と仲良くし、信頼しなきゃいけないのか不思議に思うことがあります。ですがそもそもなんで不思議に思うのか。それは私が家族と仲が悪いからでは決してありません。単純に私が反抗期だからです。それを自分でもわかっていたので「なぜ家族と仲良くし、信頼すべきなのか」と不思議に思っても「反抗期だからそう思ってもしょうがない」と、考えることを放棄し逃げていました。なので今回このテーマを選び、改めて自分と向き合うことができ有意義な機会となりました。