「ごめんなさい…」。最終プレゼンのタイトルは、白地に黒の可愛らしい字体でシンプルに羅列されたこの文字たち。一体このチームは何をしでかしたのだろうか。
学校に楽しいと自由を求めるニナ、LGBTQのことがやりたいジャクス、学校で化粧を教えてほしいと言うみゆ、の頭の回転が早くお喋り上手な女子3人組のチームだ。
一見、叶えたいことがバラバラに見える3人であったが、学校に対してのモヤモヤがあることや、違う意見を受け入れ、共に思考する波長が似ていたのであろう。「でも話し合ってたら、根本的には一緒の点ってあるんですよ。だってこのチームでいけると思ったからそりゃどっか似てる…それがやっぱ面白かったですね。どうやって馴染ませていくかみたいな。」
ニナの「何だろうな、みんなで木の板削ってパズルのピースに仕上げた感じ」。この言葉に、対話を重ねてきた3人を妄想し、放課後の香りがする青春を感じる。学校が嫌いだからと、現状から逃げるのではなく、3人は共通して「そもそも」を思考し続けていた。
ディスカッションを中心としたイベント企画「わがままを叶えるための3時間」を開催するも、人が集まらず中止に。ただここで凹たれるような彼女たちではなかった。自由のために、みんなの意見を聞きたいという願いをブレずに持っていたため、イベント企画の前に一度は挫折したアンケートにもう一度舵をとり手段を切り替えた。その結果103件の中高生の声を得た。
「一人一人の意見が濃い、重い意見をみんな書いてくれたことへの驚きと感謝」を語る3人。学校も学年も違う彼女達が出した結論は「話し合いじゃない?」。これは、一番彼女達が時間を使ってきたことなのだと確信する。アンケートにしたことで、文字に乗せた中高生の願いを1つ1つの意見として回収することができた。この尊く貴重な意見を元に教育機関ないし先生に届けることがネクストアクションである。
「何のために生まれて何のために生きるのか」ですよね、あれバイブルだと思ってるんですけど。
学校は自由じゃないのが嫌ですね。集団が昔から苦手で、なんでこれ一緒にやらないかんのじゃみたいな。納得しないとやりたくないので、学校は「でもルールだから」多すぎて。アンケートを取ってみて、しっかり1個の意見になるのは取ってて良かったと思いました。
死にて〜って今ペショ〜ってなっても、ただ死にて〜って言っただけなんですけど、LINEで友だちに死にて〜って送ったら、めっちゃ心配されるじゃないですか。なんかそんな感じがして、1個の意見になるのがすごいと思いますね。
違う視点を知ることも大事だなと。そしてどういう思考を持つかは個人個人で、そこから話し合いですね。
自分の意見を伝えることを諦めたらそこで終わりだなみたいなとは思いましたね。学校とかそれこそ社会とか、言ったら面倒になるからこれは言わない方が楽だなとか、こっから自分の意見言うのは手間かかりそうだからやめとこうみたいなって多いんですよ。それは多分その場においては正解なんだけど、話し合わなきゃいけない場だったらめちゃめちゃな悪いことだと思ってるし、実際それ自分の意見を言わないのって、ある意味その話し合いの拒否だと思うんですね。自分の意見がでないのが悪いんじゃなくて、持ってるのに言わないのって、結果的に多分何も進まないしそれで納得はしないから、やっぱ納得できるまで話し合うってのが一番大事だなって思いました。
話し合いは混ざることで、砂糖とか別に塩だって固まっても、お湯の中でなんとか混ぜてれば何とかなるじゃないですか。でも、もう岩塩と砂糖をぶつけたらどっちかが砕けるじゃないですか、それがぶつかり合いだと思うし、それを起こしたら多分何もいいことないと思うんですよそれだって。だって生徒対先生みたいな対立構造に持っていくのは簡単だけど、それしたって別にどっちにもいいことないじゃないですか。
「未来の先のこと、プラス的な次にいいものを作って挽回しようぜ」
自分はやりたいことをやるってことをモットーに生きているのでワガママSDGsというワードがすごく響いて深く考えずに参加した。自分自身が学校に対して「不満しか言ってないな」と気付かされてお互い三人とも話しているうちに、勉強がいやっていう理由ではないなと確信した。
印象に残っているのは、学校を作ろうってなった時に、一日学校みたいなプレスクールみたいなのをしようと思った時にそれが実現できなかった時ですかね。
ワガママを言おうというこの団体でワガママを言ったもん勝ちみたいな世界でどんどんわがまま言おうっていいながら皆んなで、学校に対しての不満とか、これはどうしたらいいんだろうとか考えて、じゃぁこういう風にしようって順序立てて用意していたものができなかった時にわがままだけで、わがままを叶えるってすごい難しいんだなってすごい感じました。やっぱり、子供だから無力だったなとも感じたけれど、どっちかというとワガママを叶えるのはすごい難しいんだなと感じて、自分でわかっていたはずなのにわかっていなかったんだなという感情になりました。
やっぱり、一回失敗したからこそ諦めないことの素晴らしさではないけれど、諦めちゃったら自分が今まで何をしてきたのかわからなくなってしまうし、何がしたいのか分からなくなってしまうし、諦めなかったら、たくさん色々考えを整理していく中で諦めなかったらまた新しいやりたいことが見つかることもあるし、新しい目標が見つかることもあるし、新しい考えが、諦めかったからこそ、アドバイスをもらえるかもしれないし、諦めなかったらすごい新しい道が開けてくるし、新しい発見ができるなと、それを知れたことですね。「みんなワガママを持ってたからこそお互い相手を認めようとする」居心地のいい雰囲気でした。
「躊躇しなくていいよ」無責任に、ワガママに。それが有限な世界を変えていく。
怒られるかもしれないんですけど、いい意味で責任を取らなくていいなってすごく思っていて。
高校とか中学の時に、自分が何かを発案して実行しようとしたらそれなりに責任を取らなきゃいけないことが多くて。このワガママSDGsは何かしたい!って想いを大人の方々や友だちが尊重してくれ、ほんとにただワガママ言える空間だった。
「違和感」の文章を書いたことは印象に残っていて、伝える力を持ってなくても、伝える気持ちで何とかするっていうのが斬新っていうか。それこそ、発想力を否定しないのがいいなって思いました。文章を書いた時、多分、明日が来るのが怖いなって思ってたんじゃないかなってすごく感じます。
「なんでこれやらないといけないんですか」ってすごく反発したいタイプなんですけど。生きることって産まれたら必然的に与えられてる義務みたいなものがあって。
学校をちょっと批判的に言うならば、発想力豊かな部分を責任で潰してる部分も感じるので、ワガママSDGsで非現実的世界で言いたいこと言うだけ言って、こういう風になったらいい、ってとこまでいけたなら、今度はSDGsであるとか何かを解決するときに、でもこれだったら時間がないしなとか、お金が足りないかなって言ってたら何も動けないと思うので、その中でお金も時間も無限みたいな中で、考えれたら、きっとそこから得たものを使って有限の世界だったらどう変えていけるかなってところに繋がると思う。
見たことない世界を見た。お金いくら使ってもいいってないじゃないですか。何かしようと思っても時間であるとかお金っていうのが有限であるものに縛られたりする中で、自分がいま不満に思ってることとかしたいことを、したいって願いそのものだけを上手く題材に出来たっていうか。
ワガママから始めてるから自分がやりたいことにアンケートに協力してくれるだけでも嬉しかったのに、私に希望を持ってるじゃないけど、学校を変えてほしいなって思ってる子がいて、実際アンケートしたことによってその子が意見を口に出来たことはよかったって思います。
(構成・文:橋本莉緒)